私の出前授業 - 仲 栄司(なか えいじ)

(1)講話テーマ:海外「i mode」事業はなぜうまくいか  なかったか(欧州)                                  「ガラケイ」と呼ばれた時代、日本の「i mode」は世界の携帯電話サービスの最先端を走っていた。国内最強の携帯電話サービスを海外市場にも展開しようとNTTドコモとNECは連携して打って出たが、失敗に終わった。なぜか?本講和では、最強の技術、サービスがなぜ海外市場でうまくいかなかったかを市場状況、ビジネスモデルの観点のみならず、グローバルマインドセット、異文化理解の観点からも述べていく。最大の失敗理由は、実は市場でも製品でもサービスでもなかったのである。(2000年~2007年) 講話内容:1.「i mode」とは?  2. 世界の携帯端末市場状況  3.「i mode」の海外市場戦略  4.ドコモとNECの関係  5.なぜ失敗したのか

(2)講話テーマ:海外事業立ち上げおよびグローバライゼーションの変遷(ドイツ、イタリア) ハードウエア志向の時代、量販製品といわれたPC、プリンター、ディスクドライブ、携帯電話、ファクシミリ等を欧州市場に売り込んだ。現法設立から組織づくり、現場での様々なマーケティングをとおして、ゼロからトップシェアを獲得する活動は忙しくも楽しいものだった。(1982年~)海外市場開拓にとって何が大事だったかを経験を踏まえ述べるとともに市場シェアの意味や現地法人の役割についても話していく。さらに海外事業立ち上げ後のあり方とその後の世界市場の大きな変遷について(ハードからソフト、そして(ソリューションから社会ソリューションへの動向)も考察し、今日のグローバライゼーションのあり方を考察する。 講話内容:1.グローバリゼーションの歩み(海外進出パターン)  2. 海外事業の立ち上げ  3.マーケティング施策  4.新規事業機会の見極め  5.グローバライゼーションの変遷

(3)講話テーマ:異文化のぶつかるプロジェクトマネジメント(シンガポール) 2015年、シンガポール経済開発庁のイノベーションプロジェクトに応募し、送配電所の施設・停電管理システムの開発・運用プロジェクトを受注した。シンガポール企業(送配電事業者)、米企業(ソフト開発ベンチャー企業)および私の所属する日本企業による3社コンソーシアムによるプロジェクトである。日本、アメリカ、シンガポール、インド(開発請負パートナー)の文化がぶつかる中でのイノベーションを起こすプロジェクト。シンガポールの会社は実際の送配電サービス運用、米企業はソフトの開発、私の会社の役割は、プロジェクトマネジメントというスコープでプロジェクトを開始したが、途中開発遅れ、データ不十分等により遅延。プロジェクトの途中、米ベンチャー企業は、欧州系大手企業に買収され、責任者も交代。プロジェクトは破局を迎えルカの状況だったが、最後は原点回帰を訴え、事業の成功には至らなかったが、最後まで貫徹することができた。3年越しのプロジェクトとなった。講話内容:1.シンガポールという国家  2. プロジェクトの狙いと内容  3.プロジェクト遅延  4.プロジェクト課題の整理、解決  5.プロジェクトマネジメントでの重要ポイント

(4)講話テーマ:新規市場・事業開拓(アジア、インド) 1994年、アジア市場開拓の命を受け、特に新興市場としてインド、パキスタン、インドネシア攻略の命を受けた。新興市場は、通信のインフラが脆弱であることから移動系の商品のニーズが高いとみて、GTO(Go to Market)およびどのように事業展開するかを企画、立案し、実行していった。市場としてはインドに注力、商品はページャー(日本ではポケットベルの名で親しまれていた)に注力して実施。事業パートナー選びから事業交渉、実際の事業展開まで行うとともに、将来のインド市場を見据えた青写真も描いたが、事業がうまくいかず、途中で頓挫。なぜうまくいかなかったのか、同じ新規事業で奏功したイタリアでの携帯電話事業と比較してインドのページャー事業の失敗分析を行うとともにインド市場の難しさについても言及する。 講話内容:1.市場と商品の選択  2. 事業実行体制  3.事業パートナー選び  4.事業パートナーとの交渉、事業展開  5.イタリア携帯電話事業(成功)とインドページャー事業(失敗)の比較

(5)講話テーマ:東南アジア(南洋)での日本の歴史・文化(東南アジア) 戦前は南洋と呼ばれ、今は東南アジアでの日本の進出の歴史を文学作品をとおして考察する。戦前はからゆきさんから軍事的進出、戦後は経済的進出が主となっているが、そのとき日本人は何を考え、どのような行動に走ったのかを文学作品をとおして照射する。作品は、サマセット・モーム、永井荷風、高浜虚子、金子光晴、林芙美子、火野葦平、井伏鱒二、桐野夏生、深田祐介、松本清張、角田光代など、また、からゆきさん、軍人にまつわる作品も取り上げる。大きな意味での海外進出に対する日本人の考え方やその変遷をみるとともに日本人にとって太平洋戦争とはなんだったのか、東南アジアは日本人にとってどういう存在なのかの私見を述べる。また、日本人として向き合うべきものの一つに太平洋戦争があり、戦後の経済進出がある。いずれも敗戦という結果になってしまったが、今後どうしていけばいいかについても提案したい。 講話内容:1.日本人と南洋の関係(明治維新後の歴史より)  2. からゆきさん  3.太平洋戦争 4.戦後の経済進出  5.東南アジアからの生き方のヒント

(6)講話テーマ:異文化との共生(東南アジア、欧州) 欧州と一括りに言っても、国によって、あるいは地方によって全く違う考え方をする。同様にアジアも一括りに言い切れない。考えてみれば、人口、国土、宗教、産業、通貨、一人当たりGDPなど共通する部分もあれば全く違うものもある。アジアなど人口30万人があるかと思えば12億人以上の国もある。国土も淡路島くらいの国からインド、中国のような大国もある。 私自身、ドイツ、イタリア、フィリピン、シンガポールに在住した。仕事、生活両面でいろいろな経験をした。この講演では、主に仕事の面での経験からいかに異文化の人たちとコミュニケーションを図り、ビジネス、業務を遂行したかを語る。失敗も多いが、貴重な経験、人間関係も構築できた。そうした経験をとおして、異文化コミュニケーションで一番大事なことは何かが自分なりに掴めたような気がする。グロ-バライゼーションとは、つきつめれば異文化の人たちといかにコミュニケーションを図るかということではないかと思っている。 講話内容:1.ドイツでの経験(1986~1990年)  2. イタリアでの経験(1990年~1992年)  3.フィリピンでの経験(1998年~1999年)  4.シンガポールでの経験(2015年~2018年) 5.グローバライゼーションとは

(7)講話テーマ:外国での生活(ドイツ、イタリア、フィリピン、シンガポール) ドイツ、イタリア、フィリピン、シンガポールと4つの国に出向した。本講和では、主に生活面で経験したこと、感じたことを中心に話をしていく。ドイツでは、家探しから出産、子育て、友達との交流などを中心に話をする。ただ業務そのものではなかったが、出向者同士の家族ぐるみの付き合いも多くあったので、その点についても話をする。イタリアでは、二人目の出産があり、2人の小さい子どもを抱えての生活が中心。ドイツから直接イタリアへ引っ越ししたので、引っ越しのことも話をする。また、ドイツ語は大学で専攻したので何とかなったが、イタリア語はまったく知らなかったので、そのあたりの苦労した話もしたい。フィリピンとシンガポールは単身赴任だった。フィリピンは社長という立場での赴任だったので、社長としての対応についても話をする。シンガポールは国自体が非常にユニークで、シンガポールの国を理解して生活することがより大事と感じたので、この国の特徴をいろんな風物を交えながら話をする。また、マレーシアを含めマレー・シンガポール戦線の場所も多く訪ねたので、そのあたりの話も交えてシンガポールでの生活の話をする。 講話内容:1.ドイツでの経験(1986~1990年)  2.イタリアでの経験(1990年~1992年) 3.フィリピンでの経験(1998年~1999年) 4.シンガポールでの経験(2015年~2018年) 5.家族と単身赴任のちがいなど

(8)講話テーマ:フィリピンでの危機管理  社長という立場でフィリピンに出向、しかも当時のNECには15もの現地法人、工場があり、それら拠点を代表する冠会社の社長としての出向だったため、危機管理の最終責任者は私にあった。フィリピンで注意しないといけないことをかつての住友商事マニラ支店長殺害事件(1972年)、三井物産マニラ支店長誘拐事件(1986年)他いろいろ起こった事件や私の会社関係で起こった事件も交えながら危機管理について思うところを述べる。内容的には、社長という立場での危機管理、実際に事件が起きたときの対応(出向中、睡眠薬強盗事件が発生)、フィリピン人の考え方などを中心に話をする。危機管理は国によってもそのときの政治情勢によっても変わってくる。フィリピンでは政治家との関係も重要であったことなどについても話をする。 講話内容:1.フィリピンでの自身の位置づけ、役割  2. フィリピンでの事件  3.私のグループ会社における事件  4.睡眠薬強盗事件(私自身が出くわした事件) 5.フィリピン人の考え方(異文化理解の重要性)

(9)講話テーマ:英語の語学習得  入社して海外営業グループに配属されたが、英語は全く自信なかった。日々の業務では、英語のメールを受信、返答するなど毎日英語を必要とする状況だった。ときどき国際電話もかかってきて、英語でやり取りするケースもあった。最初は英語に対する抵抗感があり、なんとかブラシュアップしないといけないと思っていた。業務的に支障をきたすことはあまりなかったが、出張に行くとなると話は別なので、2年目以降は必ず出張がある状況下、英語をブラシュアップする必要性に迫られていた。会社が提供した英語研修(2週間の缶詰研修)は、とても実り多いものだった。しかし、何よりも2年目の夏に2か月ドイツに出張に行ったことで英語に対する抵抗感はほぼ取れた。決して英語が上達したわけではないが、抵抗感は明らかになくなった。なぜか。一言でいえば自信なのだろうが、その背景にあるものは何かを話す。その後、ドイツに出向となり、英語は日々の業務や会話のベースとなり、どんどん慣れていった。英語レベルは日本にいるときとそれほど大きな進展はなかったと思うが、英語での会話ははるかにうまくなった。ヒアリングは未だに難点はあったが、それもやりようによって対応できるようになった。そのあたりのやり方も話をする。英語は上級レベルであるに越したことはないが、それでなくてもやりようはある。なぜならビジネスでは、語学以上にコミュニケーション能力、すなわち異文化理解や人との接し方がより重要だからだ。 講話内容:1.入社時の実力  2. 出向前の英語習得  3.出向してからの語学力と対応  4.ヒアリング力の脆弱さを補う方法  5.語学習得に当たって最も大事なこと

(10)講話テーマ:俳句の豊かさ  私は俳句を趣味としている。俳句をはじめたのは45歳くらい(今から15年ほど前)だが、俳句をやり始めて世界が広がった。海外ビジネスを遂行する上でも俳句は大いに役立っている。 まず、俳句は日本文化を代表する短詩型なので、日本文化や日本語について話がしやすくなった。次にプレゼンテーション等をまとめるときにできるだけ語数を少なくして、相手に明白に伝える必要あるが、その際にも俳句手法は応用できる。さらにいろんなことに目がいくようになり、森羅万象すべてに宇宙観があり、視野が広がった。しかし、何よりも俳句のいいところは自分自身の生き方が反映されていること。このことにより自分自身の考え方、価値観をあらためて見直しすることができ、知ることができた。「俳句は生きる姿勢」とは俳人福永耕二のことばであるが、まさにそのとおりである。自分自身の海外での活動が俳句をやることにより一層幅が広がり、豊かになったと思う。効用というだけではなく、もっと心に響く豊かさを味わっている。そのあたりの感覚を俳句の要諦を提示しながら話をする。海外でのビジネス、生活にも俳句は重要であることを示せたらと思っている。 講話内容:1.俳句を始めたきっかけ  2. 俳句とは  3.海外ビジネス上での俳句の効用  4.私の人生における俳句の役割  5.俳句の現代性と私の今後の俳句

〈プロフィール〉

1978年 上智大学外国語学部ドイツ語学科入学
1982年 日本電気㈱入社 (欧州事業に携わる)
1986年 NEC ドイチュラント社出向(セールスプラニングマネジャー)
1990年 NECイタリア社出向(コーポレートプラニングマネジャー)
1992年 帰任(アジア事業に携わる)
1998年 NECフィリピン社出向(社長)
2000年 帰任(携帯電話、サーバー事業に携わる)
2015年 NECアジアパシフィック社出向(スマートエネルギー事業責任者)
2018年 帰任
2019年 日本電気㈱退社、NEDO入社
2021年 NEDO退社、神田外語キャリアカレッジ入社 代表に就任